本と旅とそれから 親鸞 完結篇/五木寛之

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親鸞 完結篇/五木寛之

三部作の、ようやく完結編。この完結編の宣伝ポスターを見てから2年ぐらい経つかしら。妙心寺近くのお店のウィンドウに貼ってあったのでしたが。

それにしても、仏教の教えといえば漢字だらけで、ひたすら難しいイメージがありますが、五木さんの「親鸞」はホントに読みやすく、親しみやすい。難しい「宗教モノ」にしないように配慮されたのでしょうか。
「親鸞 完結編」

親鸞 完結篇(上)(下)/五木寛之(講談社)

第一部は、親鸞が念仏者としての考え方を確立するまでの変遷が描かれていたために、その考え方について様々に記述されていましたが、今回の第三部・完結編は、思想的なことはあまり触れられず、晩年の親鸞の姿について、淡々と描いています。


親鸞上人って、90歳ほどまで長生きされたのですねえ。高齢になるにつれ、人より丈夫だった足腰や目や耳も弱り、夢にさえすらすらと出てきたありがたい経典の文言も、書物にあたらなければはっきりと思い出せなくなってゆく。しかし親鸞はそれを、「痴愚に帰れ」と説いた師・法然上人の教えを自然がかなえてくれたものとして、ありがたく受け止める。
そして最後は、どこにでもいそうな一人の老人として、静かに息をひきとる。

その最期の描き方はまさに、親鸞が特別な存在ではない、ただ一人の人間だったのだと、しかしそこに大きな敬意をもって語るものだと思いました。

親鸞自身の姿が静かで淡々としているのとは対照的に、彼を取り巻く人間たちは、騒がしく賑わしい。
様々な人が登場するのですが、主なもののひとりが、親鸞の長男・善鸞(ぜんらん)。偉大な父の長男として、彼なりに懸命に学び、修行するものの、決して父に代わることができるわけではなく、周囲からも父・親鸞本人からも、思うほどには認めてもらえず、悩む姿が描かれます。

誰の目にも、「いい人だし、頑張ってるし、優れた才にも恵まれているのに」と映ることでしょう。
特に善鸞は、唱導という、教えを歌という形で聞かせるといういわばパフォーマンスに優れており、それを自分の信仰の形として多くの人に認めてもらいたいと願います。
そして、そのパフォーマンスの場を求めて京を離れて東国へ行き、しかし東国の念仏者たちと対立し、ついには事態を憂えた親鸞から義絶されてしまう・・・。
そこに、善鸞の妻・涼(すず)も関わってきていっそう話がややこしくなるのでした。

後継者だの、認めてもらいたいだのという考えが入り込んできた時点ですでに、親鸞の念仏の考えからは離れてくるわけですけど。
そうはいっても、人間は原始時代に生きているわけでも山奥でひとり暮らしているわけでありませんから、念仏だけを専らするのは至難です。それができる人はそれゆえに尊いってことでしょうか。

もうひとり、親鸞の娘・覚信(かくしん)も登場。
善鸞の名は知りませんでしたが、覚信(尼)といえば有名人。後の巨大教団の基礎を築いたと言ってもよい人ではないでしょうか。
夫と死別したのち、親鸞と同居してその身の回りの世話をします。
静かに死んでゆく親鸞の傍らでしかし彼女は、親鸞はふつうの人とは違う、菩薩の生まれ変わりに違いないという確信を深めていきます。

読みながらずっと思うのは、親鸞上人が後の浄土真宗の隆盛の様を目にしたらどう思われるだろうかということ。巨大勢力となり、時の権力者と戦までし、教祖(?)の後継者を巡って争い、壮麗な伽藍をかまえ・・・。親鸞は菩薩の生まれ変わりだと語る娘・覚信の言葉に、静かに首を振る親鸞。その後のことは語られぬまま物語は親鸞の死で終わりますが、覚信尼のその後の行動をわずかながらも知識として知っていると、いわば余韻のような感じで、親鸞の死後、その教えは彼の意図とは違うものに変貌していったのだなと思わずにはいられません。

宗教思想とは結局のところ、ひとりひとりのものなのではないでしょうか。
何かの思想に確信をおぼえた人は、それをほかの人に伝えようとする。そのために説法を行い、数々の文書を記す。でも、それを100パーセント同様に誰かに伝えることなど、そもそもできるはずがない。
親鸞にしても、本人がずっと様々なことに悩み、迷い、答えを見つけられずにいたわけですから。

・・・あ、もちろん、五木寛之さんが「あとがき」でもまず書かれているように、「親鸞」は小説で、描かれているのは五木版親鸞以上のものではないわけですが。

宗教とはそもそも何なのか。
「精神の麻薬である」と言った人があるそうですが、それも大いに頷けます。ひとたび何かの信仰に傾倒してしまうと、もはや周りが何を言おうが聞こえない。

神を持つ信仰者と、私のような持たぬ人とではまた、とらえ方はまったく違うだろうとも思います。
一方で、信仰者も様々だというのは、昨今の宗教をベースにした多くの事件にも明らかなこと。本当に何かの神やその教えが全知全能的なものならば、いちいち言葉にしなくても、どんな人間でも、人間として存在するだけでスパッと身についてしまうはずじゃないんですか。たとえば、お日様が万人に明るく温かいように。

宗教は、良くも悪くも主観的なものだと、思えてならないのでした。


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